エッセイ

インド史上最も英明な君主はアフガニスタン系だった

アフガニスタンは皆さんにとってどんなイメージですか?多分アフガニスタン戦争後、うまくいってない印象ではないですか?また近世のインドはどんなイメージですか?きっと見当がつかないかもしれません。

でも、16世紀にアフガニスタンが輩出した人物が、インドの王朝を創始し、官僚機構を整備、現在の貨幣ルピーを作り、インドを貫く大幹線道路を完成させた開明的な王様だったらどうですか?

上述の印象が異なりますよね?

今回の記事の主人公は、インド史上最も英明な君主と言われている、シェール・シャーという君主について書きたいと思います。

是非ともインドとビジネスをしている方に、読んで欲しい記事です。

ムガル帝国の成立

インドの”ムガル帝国”という国は聞いたことがあるかもしれません。

まずムガル帝国(1526年 – 1858年)より前の王朝は、ローディー朝(1451年 – 1526年)という王朝でした。ローディー朝を滅ぼしたのは、バーブル(1483年 – 1530年)という男でした。彼は、一度滅んでしまった中央アジアのティムール帝国の直系で今のアフガニスタンのカーブルを拠点とした領主でした。

バーブル(1483年-1530年) ムガル帝国初代皇帝

帝国を復興すべく中央アジアに進出しようとしましたが、挫折し、アフガニスタンから南下しインドへと侵攻しました。

バーブルの軍は兵数1万から2万、ローディ朝は5万から10万でしたが、バーブルは最新式の鉄砲歩兵、大砲を主力に編成し、ローディ朝の騎馬軍団を圧倒し、ついに滅亡へと追い込んだのでした。

バーブルはインド征服から4年後、1530年に病死しました。

後を継いだのは長男のフマ―ユーン(1508年-1556年)でした.

フマーンユーン(1508年-1556年) ムガル帝国第2代皇帝

シェール・シャーの出現

フマーンユーンは優秀な軍人でしたが、皇帝としての権力は盤石ではなく、異民族との抗争、皇位を狙う弟とたちとの暗闘に悩まされていました。

そこで、バーブルが崩御した直後の1531年、元々バーブルの部下だった男でインド北部のビハール州の領主をしていた、シェール・シャーがムガル帝国に対して反旗を翻しました。

シェール・シャー(1486年-1545年) まるで俳優さんみたい。

 

シェール・シャーはアフガニスタン系の民族出身で、若い頃から政治手腕に長けていました。ムガル帝国への離反から、10年かけてシェールシャー軍の方が優勢となり、ついに1540年、首都デリーを陥落させフマーンユーンを追放し、ムガル帝国を滅亡させました。途中、戦いでフマーンユーンはシェ―ルシャーを降伏させたこともあったのですが、結局シェールシャーを生かしておいたため、最終的に国を失っています。

シェールシャーが1540年に、インドの王朝としてズール―朝を創始した後、現代のインドにまで影響力が残る行政改革に着手します。以下が主要な改革です。

1、グランドトランク(大幹線道路)の完成

グランドトランクは現在のバングラデシュからカブールまでを貫く、大幹線道路です。現在も道路として使われていますし、一部は高速道路化されています。

2、州(サルカール)の設置

帝国の領土を47州に分割し、地方行政官、地方武官を設置・整備しました。

3、検地

帝国における耕作可能な土地を統一的な尺度で計測しました。

4、税制改革

上記で計測した土地に関して、生産能力が高い土地とそうでない土地に分け、生産能力に応じて税率を変えて徴収するようにしました。

また以前は農民が税金を中間役人に支払い、中間役人が徴収した税金を中央政府に支払っていたのですが、そうすると中間搾取されるようになりました。そこで、農民が直接的に中央政府に税金を支払うシステムにしました。

5、銀貨の鋳造

現在もインドで使われている貨幣の単位ルピーを鋳造したのもシェール・シャーです。

シェール・シャーが鋳造した一番最初のルピー

シェール・シャーの死後

上記のように次々と改革を打ったシェールシャーですが、ムガル帝国を滅ぼして王位に就いた後、わずか5年で戦闘中の事故で崩御します。

言い換えれば、上記は全てわずか5年の間に実行した政策ということです。

シェール・シャーの切手。

シェールシャーの死後は息子イスラームが王位を継承したのですが、支配権が盤石でなく内部抗争に悩まされ続けます。継承から9年後イスラ―ムも崩御します。これにより、内部抗争は完全に内乱化してしまいました。そこへ、上述のかつてシェール・シャーに帝位を追われたフマーンユーンがサファヴィー朝(現在のイラン)から資金と兵隊を借りて戻ってきました。フマーンユーンは元々軍才がありましたし、シェールシャーの死後インドが内乱化していたこともあり、ムガル帝国を再興することに成功します。帝位を追われてから15年経過した1555年の出来事でした。

しかし、再興からわずか6カ月で図書館で階段から転げ落ちたことにより崩御します。

余談ですがムガル帝国はイスラム教スンナ派でサファヴィー朝はシーア派です(現在もイランはシーア派)。フマーンユーンは亡命先のサファヴィー朝タフマースプ1世と宗派を超えて意気投合したといわれています。もしかすると、当時の乱世にしては比較的いい人だったのかもしれません。

フマーンユーンとサファヴィー朝タフマースプ1世が仲良さそうにしてる図

このように、シェール・シャー死後、インドは政権が安定していませんでした。しかし、フマーンユーンの死後、息子アクバルが継承し政権を安定させます。彼が現在のインドでもシェールシャーと名を争うほど、名君として名高いアクバル大帝です。

ムガル帝国第3代皇帝 アクバル大帝(1542年-1605年)

アクバル大帝の代に、シェール・シャーが打った改革を更に発展させ、帝国は絶頂期へと向かっていきます。

 

おわりに

いかがでしたか?

今回の話は16世紀のインドの話です。16世紀において、ヨーロッパではイギリスのエリザベス1世や、フランスのアンリ四世の時代であり、中世の領邦国家から近世の中央集権国家へと変貌した時代です。同様に日本では織田信長の出現により、大名による領邦国家からより中央集権的な国家に変化していった頃です。

同じタイミングでインドでも領主が割拠する時代から、州を設置して地方行政官を送り込む中央集権的な国家に変化する点が不思議ですし、歴史の面白い点ですね。

また、その変化の先駆者となった人がアフガニスタン人というのも興味深いです。

アリミツでした。

 

 

 

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